関税交渉の裏で進む“米国進出と世界的値上げシナリオ”
◆ スイス時計業界を揺るがす「39%関税ショック」
2025年夏、アメリカがスイス製品に対して最大39%の輸入関税を課すと発表して以来、スイス時計業界はかつてない混乱に包まれています。
特にロレックスをはじめとする高級腕時計ブランドは、世界でもっとも大きな市場の一つであるアメリカでの販売が直撃を受けました。
スイス時計産業連盟(FH)の統計によると、2025年9月のスイス時計輸出額は前年同月比で3.1%減少。
中でもアメリカ向け輸出は56%もの大幅減少となり、これは事実上、スイス製時計の販売が半減したことを意味します。
この関税の影響は、単に輸出の減少だけでなく、在庫調整・価格戦略・雇用維持など、ブランド経営の根幹を揺るがすレベルにまで拡大しています。
◆ ロレックスCEOがホワイトハウスへ ― 異例の政治交渉へ
こうした状況を受け、2025年11月5日、スイスの主要企業幹部たちがアメリカ・ワシントンのホワイトハウスを訪れました。
その中には、ロレックスCEOのジャン・フレデリック・デュフォー氏、リシュモングループ会長ヨハン・ルパート氏、パートナーズ・グループ幹部らが名を連ねています。
報道によると、この会談は“建設的な雰囲気で行われた”とされており、
スイス側は単に関税の撤廃を求めるのではなく、「長期的な経済協力を通じて関係改善を目指す」という立場を示しました。
ロレックスが政治の場に直接関与することは極めて異例です。
ブランドとして中立を保つことを重んじてきたロレックスがここまで動くということは、今回の関税がそれほど深刻な経営リスクとなっている証拠でもあります。
◆ スイス側の“譲歩カード”と米国投資の思惑
Bloombergの報道によると、スイス企業は関税緩和の交渉材料として、
米国内での投資拡大や雇用創出を提案しているといいます。
つまり、「アメリカ経済に貢献することで、関税を緩和してほしい」というメッセージです。
特にロレックスは、アメリカ市場を単なる販売拠点としてではなく、今後の成長戦略の中核と位置づけています。
現在、ニューヨーク・5番街にてロレックスUSAの新本社ビルを建設中であり、
これは単なるオフィス移転ではなく、販売・流通・広報を統合する戦略拠点となる予定です。
こうした動きを見ると、ロレックスは“アメリカとの関係強化”を本格的に進めていることがわかります。
◆ ロレックス・アメリカ工場設立の可能性
現時点で「ロレックスがアメリカに製造工場を建設する」という確報はありません。
しかし、複数の業界筋では“限定的な工程の現地化”が検討されている可能性があると指摘されています。
その背景には、三つの要素があります。
まず第一に、アメリカ市場での存在感の拡大です。
販売網やブランド活動の強化が進んでおり、
今後は販売後のサービス・修理・調整といったサポート体制を現地で完結させる必要性が高まっています。
第二に、スイス本国での生産拡張計画です。
ロレックスは現在、スイス・ブールに総投資額10億スイスフラン規模の新工場を建設中で、2029年の稼働を目指しています。
この新拠点が完成すれば、生産ラインの分散化が進み、一部を海外で補完する余地が生まれる可能性も出てきます。
第三に、関税交渉が長期化するリスクです。
仮に39%関税が数年にわたって続けば、ロレックスはサプライチェーンの一部を米国で持たざるを得なくなる可能性もあります。
もっとも、ブランド哲学としての「Swiss Made(スイス製)」を守るため、
完全な生産移転はほぼあり得ません。
スイス製表記の法的基準では、製造コストの半分以上をスイス国内で発生させる必要があり、
これを満たさなければ「ロレックス=スイス製」のブランド価値が揺らぐことになります。
したがって、アメリカ工場が設立されるとすれば、
それはアフターサービス・検査・部分組立の拠点にとどまる可能性が高いでしょう。
◆ 関税の余波 ― 日本市場への波及
アメリカ向け輸出が滞ると、当然スイス本国には在庫が残ります。
その一部がアジア市場に再配分されることで、日本市場でも一時的に供給が増える可能性があります。
一見すると、これは「買いやすくなる」ように思えますが、実際にはそう単純ではありません。
ロレックスは世界共通価格を維持するブランドであり、
地域間の価格差が生じると並行輸入業者が差益を狙って大量に買い付ける「アービトラージ取引」が発生します。
このため、アメリカでの関税コストが上昇すれば、
他地域、つまり日本でも同時に定価改定が行われる可能性が高いのです。
すでに2026年初頭にかけて、金無垢モデルを中心に値上げが行われるという観測も出ています。
この“関税連鎖”が、ロレックス相場を押し上げる要因のひとつになるかもしれません。
◆ 中古市場の反応 ― “逃避的な買い”が加速
関税報道が出た直後から、中古市場では動きが活発化しています。
HODINKEEの分析では、関税発表後にロレックスやパテック・フィリップの出品数が増加し、価格も上昇に転じたとされています。
これは、「供給が減る前に確保しておきたい」という投資的な心理の表れです。
2020年のパンデミック期にも同じような現象が起きました。
新作供給が止まると、中古市場に需要が集中し、結果として相場が吊り上がる。
今回もそれと同じ構図が再び動き始めているといえるでしょう。
◆ 今後のシナリオ:関税交渉の二つの道
今後の展開は大きく二つの方向に分かれます。
1つ目は、スイス側の譲歩により、アメリカが段階的に関税を引き下げるケース。
これが実現すれば、ロレックスは価格を維持したまま供給を安定化させることができます。
2つ目は、交渉が難航し、関税が長期化するケース。
この場合、ブランドはアメリカ市場のシェア維持を優先し、
他地域、特にアジア市場での値上げや出荷調整を進める可能性が高まります。
どちらのシナリオにしても、2026年以降にロレックスの定価改定が行われるのはほぼ確実と見られています。
素材高騰、為替、関税――この“三重要因”が重なることで、ブランドは新たな価格体系を模索していく段階に入りました。
◆ スイス製の誇りと「現地化」のジレンマ
ロレックスにとって、今回の問題は単なる経済的課題ではなく、ブランド哲学を問うテーマでもあります。
創業以来、完全な垂直統合体制を守り抜き、
「スイス製こそ最高品質」という価値観を世界に広めてきたロレックス。
しかし、グローバル経済が変化する中で、“スイスだけに依存しない体制”を模索せざるを得ない状況にあります。
ニューヨーク本社ビル建設や、アメリカ市場での影響力強化は、その前触れと言えるでしょう。
「スイス製を守りながら、アメリカを取り込む」。
これが今後のロレックスに求められる、もっとも繊細で難しい経営判断です。
◆ 結論:ロレックスは次の時代へ動き出した
ロレックスCEOのホワイトハウス訪問は、
単なる外交イベントではなく、時計産業の新たな地政学的転換点を示す出来事でした。
スイスとアメリカ、伝統と市場、理念と現実――
これらすべての要素が交錯する中で、ロレックスは今、新しい時代への舵を切り始めています。
関税交渉の結果次第で、
ロレックスはこれまでにないスピードで「再構築」と「値上げ」を同時に進めることになるでしょう。
次の価格改定がいつ来てもおかしくない今、
“現行定価で買える最後のタイミング”が、すでに訪れているのかもしれません。
